続100名城

【続100名城】四国を代表する武将!長宗我部の岡豊城【高知県】

続100名城、今日紹介するのは高知県です!

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岡豊城

岡豊城(おこうじょう)は、四国を代表する戦国武将長宗我部氏の居城です。

長宗我部氏は土佐七雄と呼ばれた有力国人の一家ですが、国親が台頭するまでは七雄の中では最弱勢でしたが、国親の子・元親の時代になると、元親が土佐を平定し四国をほぼ統一します。

土佐七雄
土佐国に存在した7つの豪族(長宗我部氏、本山氏、山田氏、吉良氏、安芸氏、大平氏、津野氏)の総称。

そんな四国征服を目指す元親に待ったをかけたのが織田信長です。土佐国と阿波南半国のみの領有を認めて臣従するよう迫るも元親は拒絶をしました。このことから信長とは敵対関係になるのですが、幸いにも本能寺の変が起きたことで危機を脱します。

そして元親はこの混乱に乗じ勢力拡大を図り、四国全土をほぼ統一することに成功するのです。

その後、秀吉が紀州征伐を成功させ、元親に伊予・讃岐の返納命令を出しました。元親は伊予を割譲することで和平を講じようとしたのですが、秀吉はそれを許さず10万を超える兵を派遣してきました。

海岸線沿いに防備を固め抗戦するも、長宗我部方の城を相次いで攻略されついに元親は降伏します。その結果、阿波・讃岐・伊予を没収されて土佐一国に減じられてしまいました。

豊臣政権下においては秀吉の九州征伐に嫡男の信親とともに従軍するのですが、戸次川の戦いにおいて信親が討死してしまいます。

愛息・信親を失った元親の生活は荒れ、家督相続においては次男の香川親和や三男の津野親忠ではなく、四男の盛親に家督を譲ることを決定したことで反対の声が上がるのですが、反対する家臣は一族だろうと粛清、盛親への家督相続を強行し、長宗我部氏は衰退の道へ辿っていきます。

長宗我部元親
戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の戦国大名。長宗我部氏第21代当主。側室は小少将。幼少の頃は色白で大人しく姫若子(ひめわこ)と揶揄されていた。

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長宗我部信親
長宗我部元親の嫡男。

幼少時から聡明であり、文武に優れ礼儀正しく、家臣や土佐国の民からの人望も厚かったといわれ、父・元親からの寵愛を一身に受けていたが、戸次川の戦いにおいて討死する。その変わり果てた姿を元親は直視できず、泣き崩れたという。

元親は、信親の忘れ形見である娘を盛親の正室として娶わせることで、信親の血統を長宗我部氏当主に続かせようとした。(この目論見があったため娘と年が近い四男・盛親が後継者になったとも言われている)

津野親忠
長宗我部元親の三男。

津野勝興の養子として送り込まれ津野氏の当主となるも父・元親が秀吉に敗れると、秀吉のもとへ人質として送られることになる。

人質時代に藤堂高虎と親しかったことから父・元親からは嫌われ、家督を継ぐこともできず、さらには父・元親によって幽閉されることになる。

関ヶ原の戦いでは、当主である四男・盛親は西軍に与し破れたため、親忠は井伊直政を通じて徳川家康に謝罪し本領安堵を取りなしてもらおうするも、四男・盛親によって讒言された挙句、四男・盛親によって殺害された。

長宗我部盛親
長宗我部元親の四男。長宗我部氏第22代当主で長宗我部氏の最後の当主。

盛親は兄弟の中でも傲慢で短気な性格から人望が薄かったが、父・元親には溺愛されていた。

関ヶ原の戦いで西軍に与するも敗色濃厚と見て戦わず帰国し、徳川氏に謝意を表し難を逃れるも、帰国直後に重臣たちが浦戸一揆を起こしたことで領国を没収され浪人なる。

その後、豊臣側から土佐一国の贈与を条件に旧臣と共に大坂城に入城することが認められ、大坂の陣に参戦するも敗北。

再起を図るべく逃亡するも捕えられ、「出家するから」とまで言って命乞いをしたが徳川家康はこれを許さず、長宗我部家は滅亡した。

なお、兄・親忠を殺したことで「兄殺し」となり、長宗我部氏の改易の一因となっている。

岡豊城 アクセス

JR土佐大津駅より徒歩50分

岡豊城 スタンプ設置場所

高知県立歴史民俗資料館二階総合案内