続100名城、今日紹介するのは山口県です!
大内氏館・高嶺城
写真は、山口市 大内氏館の庭園。発掘成果をもとに復元整備されました。館を訪ねて、守護大名の庭を体感できたのは幸せでした。 pic.twitter.com/lo8OSnHerK
— 千田嘉博_城郭考古学 (@yoshi_nara) 2017年12月7日
【大内氏館】
山口県山口市大殿大路に建てられた城館で、大内氏24代当主の大内弘世が、山口を本拠と定め移り住んだ時に築かれた居館(守護館)です。
大内義隆の時代に家臣の陶隆房の謀反が起き、西国随一の戦国大名とまで称されていた大内氏が実質的に滅亡し(大寧寺の変)、大内氏館もその役目を終えることとなります。
大寧寺の変
大内義隆が家臣の陶隆房(のちの晴賢)の謀反により、自害させられた政変。後年の本能寺の変と並ぶ下克上の事例ともいわれる。
大内義隆
大内氏の第16代当主、戦国時代の武将・守護大名。
大内家は領土的に全盛期を迎えた一方、文治政治(力で圧伏する武断政治に対応する政治手法)に不満を抱いた家臣の陶隆房に謀反を起こされ、義隆と一族は自害し、大内家は事実上滅亡した。
亀童丸という幼名は父や祖父(歴代当主)が名乗った幼名であり、義隆は幼少時から嫡子としての地位を明確にされていた。(大内氏は家督継承の度に内乱が発生しており、内紛を予防するために名乗らされていた)
義隆は女色と同様に衆道を好んでおり、ザビエルが男色を非難すると、激怒してザビエルを退出させたという逸話がある。
陶晴賢
戦国時代の武将で大内氏の家臣。
大内氏の重臣の家柄に生れ、少年時は美男として知られ、大内義隆の寵童として重用された。
月山富田城攻めに失敗したことから義隆は文化に傾倒し、断派の陶晴賢は影響力を失ってゆき、義隆とも不仲になっていった。
文治派の相良武任を暗殺しようと企てるが、事前に察知されて義隆の詰問を受けることとなり、大内家での立場を失うことになる。
相良武任は自らも責任を追及されることを恐れて、義隆に「陶晴賢と内藤興盛が謀反を企てている。さらに対立の責任は杉重矩にある」と讒訴(ざんそ:他人をおとしいれようとして、事実を曲げて言いつけること)した。
このことで、文治派を擁護する義隆と武断派の陶晴賢の対立は決定的なものとなり、義隆を自害に追い込んだ。(相良武任は身の危険を感じ周防から出奔している)
その後、義隆の養子であった大友晴英(豊後大友氏当主・大友宗麟の異母弟)を内氏新当主として擁立し、実権を掌握し徹底した軍備強化を行うも、毛利元就と陶晴賢との間で行なわれた合戦(厳島の戦い)において敗戦。逃走途中に自害する。
辞世の句は「何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に」である。
「惜しむことも、恨むことも、何も無い。こうなることは生まれた時から決まっていた。」という辞世の句はなんとも言えない切なさを感じます。
【高嶺城】
※wikiより
高嶺城(こうのみねじょう)は大内氏館の詰の城として整えられた標高338mの鴻ノ峰にある山城です。
大内氏最後の当主・大内義長は、大寧寺の変の後に陶隆房らに迎えられて当主となるも、厳島の戦いで陶晴賢が敗れて自害し、大内氏の主力も壊滅的な被害を受けてしまいます。
石見国の吉見正頼や安芸国の毛利元就に備えるべく、高嶺城の築城が開始されるのですが、毛利氏による攻勢は予想以上に早く、大内義長は未完成の高嶺城を放棄して逃亡、自害することになります。
大内氏の滅亡後、毛利氏が城を完成させました。
大内氏館 アクセス
JR山口線 山口駅からバスで5分
高嶺城 アクセス
JR山口線 山口駅から車で10分
大内氏館・高嶺城 スタンプ設置場所
山口市歴史民俗資料館