続100名城、今日紹介するのは埼玉県です!
忍城
忍城(おしじょう)は、埼玉県行田市にあったお城で、戦国時代には難攻不落の城として名を馳せ、上杉氏や北条氏の侵攻を何度も退けました。関東七名城の一つに数えられています。
小田原平定では石田光成率いる2万3千の軍勢に水攻め(石田堤)にされましたが、小田原城開城まで持ち堪え浮き城や亀城と称されるようになりました。
忍城の戦い
成田氏の本拠である忍城を巡って発生した戦い。
小田原攻めが決定した際、成田氏当主・成田氏長と成田泰親は小田原城に籠城していたため、忍城には成田泰季と成田長親、甲斐姫らが籠城することになった。
豊臣軍は忍城を攻略するために石田三成、大谷吉継、長束正家を派遣するも、城の守りが固く豊臣軍は攻めあぐねた。
そこで石田三成は全長28kmの堤防を4~5日という短期間でを築きあげ、水攻めを行うことになるのだが、本丸は沈むことなく、逆に破壊された堤防によって豊臣軍に死傷者がでる羽目に。
その後、浅野長政、上杉景勝、前田利家らが攻城軍に加わるのだが、それでも忍城は落城しなかった。
小田原城が降伏・開城し北条氏が滅亡すると、他の北条方の支城もことごとく落城したが、忍城は最後まで落城せず、成田氏当主・成田氏長が秀吉の求めに応じて城兵に降伏をすすめたことでようやく忍城は開城した。
なお、石田三成は実際には水攻めには批判的であったのだが、秀吉の主導によって水攻めが行われたものである。(しかしこの城攻めの失敗により、石田三成は戦下手の烙印を押されてしまうことになる)
成田長親
成田長親(なりたながちか)は、忍城の戦いの総大将。
忍城の開城後、成田氏当主・成田氏長は領地を没収されるも、着実に功績を挙げていったことで(娘・甲斐姫が秀吉の寵愛を受けたことも影響し)、成田氏当主・成田氏長は烏山城2万石を与えられ、再び大名となるのだが、成田氏当主・成田氏長から向けられた嫌疑を知った長親は烏山を去り流浪の身となる。
成田氏当主・成田氏長は、嫌疑をかけるべき相手が別人(一門の長老・成田近江守と浅野長政が内通)と知り大いに後悔し、長親に書状を送り陳謝したが、長親はこれに従わず、剃髪し隠居したとされる。
ちなみに成田近江守と浅野長政の内通を握りつぶした人物がいるのですが、誰だと思いますか?
実は、石田光成なのです。
内通が成功していれば忍城は陥落したとされていますが、なぜこの内通が握りつぶされたのかというと、水攻めに失敗した自分(石田光成)が無能扱いされ、手柄も浅野長政に奪われることを危惧したからだと言われています。(なんならそこで浅野長政をはめようともしていた)
ちなみに、行田といえばドラマ陸王のロケ地でもありますよ!
忍城 アクセス
秩父線行田市駅から徒歩で15分
忍城 スタンプ設置場所
行田市郷土博物館
杉山城
【曲輪の写真特集】 杉山城(埼玉県) 東二の郭 #城 #写真 #曲輪 https://t.co/kUBNQC0S5K pic.twitter.com/jQGJpvN3a4
— 日本の城写真集 (@castle_jpn) 2018年12月21日
杉山城は埼玉県比企郡嵐山町にあった中世山城で、近接する菅谷館などともともに、国指定遺跡「比企城館跡群」となっています。
杉山城 アクセス
東武東上線武蔵嵐山駅から車で10分
杉山城 スタンプ設置場所
嵐山町役場
菅谷館
菅谷館(埼玉県嵐山町)の南郭の土塁。紅葉が良い感じ。立体視画像付き。 pic.twitter.com/rNX2C9gLuO
— 産鉄族 (@santetsuzoku) 2018年12月23日
菅谷館(すがややかた)は埼玉県比企郡嵐山町にあった鎌倉幕府初期の有力御家人であった畠山重忠の居館です。
後に山内上杉氏が館跡を菅谷城(須賀谷城)として再興しました。
菅谷館 アクセス
東武東上本線武蔵嵐山駅から徒歩約13分
菅谷館 スタンプ設置場所
埼玉県立嵐山史跡の博物館展示室受付