続100名城、今日紹介するのは和歌山県です!
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新宮城
新宮城。別名丹鶴城。
徳川将軍陪臣水野氏の居城。陪臣がこんな凄い城を持つなんてびっくり❗️眼下には熊野川。すぐそこは太平洋。すばらしいロケーション。熊野川から見上げる新宮城もまた絶景。#新宮 #新宮城 #城跡 #日本の風景 pic.twitter.com/n2YXpQSlux— しのは (@i4vssl520JVE1fM) 2019年2月25日
新宮城は熊野川を望む丘陵に築かれた総石垣のお城です。源為義と丹鶴姫の住まいがあったことから丹鶴城とも呼ばれます。
丹鶴姫の伝説
丹鶴姫は源為義の娘であり、後の鳥居禅尼(とりいぜんに)で、実在の人物です。
源頼朝・義経兄の叔母にあたる人物で、第18代熊野別当・湛快の妻となり、後に第21代別当となる湛増の母親でもあります。
鳥居禅尼は治承・寿永の乱後、乱中の数々の功績によって、甥に当たる将軍源頼朝から、紀伊国佐野庄および湯橋、但馬国多々良岐庄などの地頭(土地や百姓などを管理)に任命され、鎌倉幕府の御家人になりました。
湛増といえば、熊野水軍を率いて源平合戦で活躍した人物であり、伝承では武蔵坊弁慶の父としても描かれています。
そんな丹鶴姫はもののけ姫の伝説があるのです。
丹鶴城主の姫君の丹鶴姫は子供が好きださうで、 夕方、 子供がひとりでそのあたりを通つてゐると、 緋の袴の姿で丘の上へ現れて来て扇で子供をまねく。 招かれた子供は次の日の朝になると死んでゐるといふのである。 その丹鶴姫の使いが黒い兎で、 子供の通る道の前をひよいと横切ることがある。 やつぱりそれを見た子供は死ななけりやならないともいふ。
※佐藤春夫の著作「わが生い立ち」
しかし、丹鶴姫は丹鶴城主の姫君ではないため、源為義の娘である丹鶴姫がもののけとなっのか、丹鶴城主のいずれかの姫君がもののけになったのかは定かではありません。
ちなみに丹鶴姫には新宮十郎行家(源行家)という弟がおり、「頼朝第一、義仲第二、行家第三」と称えられたほどの人物でしたが、平家滅亡後、行家は義経と手を結んだことで、最期は鎌倉方の追っ手によって斬られています。
熊野別当
9世紀~14世紀前半にかけて、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の統括にあたった役職。
承久の乱以後、徐々に衰退していった。
治承・寿永の乱
一般的には源平合戦などとして知られる。
後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機に各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、最終的には平氏政権が崩壊し、源頼朝を中心とした鎌倉幕府の樹立という結果に至る。
承久の乱
日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争い。
後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げるも、朝廷側が敗北し、以後、鎌倉幕府では北条氏による執権政治が100年以上続いた。
北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなる。
北条義時
鎌倉幕府の第2代執権(鎌倉殿を助け政務を統轄)。源頼朝の正室・北条政子の弟。
源氏将軍(鎌倉幕府を開いた源頼朝、頼家、実朝の3代の将軍)が途絶えた後の、鎌倉幕府の実質的な最高指導者。
鎌倉殿
鎌倉幕府の棟梁、あるいは鎌倉幕府そのもののこと。平家物語では鎌倉殿とは頼朝を指す。
新宮城 アクセス
新宮駅から徒歩で15分
新宮城 スタンプ設置場所
新宮市立歴史民俗資料館