続100名城、今日紹介するのは三重県です!
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津城
津城は、三重県津市にある日本のお城で、織田信長の弟・信包(のぶかね)が、この地に初めて本格な城を築きました。
伝え語りや実見をまとめた累世記事によると、伊勢情勢に詳しかった滝川一益がこの地に城を建てるよう進言したとされています。
関ヶ原の戦いの後に入った藤堂高虎が城を大改築し以後、幕末まで藤堂氏が続きます。
津城 アクセス
津駅から三重会館行バスで10分
津城 スタンプ設置場所
高山神社社務所
多気北畠氏城館
多気北畠氏館 三重県津市
北畠神社が館跡です、庭園は綺麗てました。又埋め戻されていますが、日本最古の石垣大丈夫そうです(居館としては) pic.twitter.com/8B9CGKSqkr
— 樋口山城守与六 (@yamashiro2017) 2018年11月12日
多気北畠氏城館(たげきたばたけしじょうかん)は、南北朝時代南朝方の重臣、北畠親房(きたばたけちかふさ)の三男・顕能(あきよし)を祖とする北畠氏の本拠の城です。
北畠親房についてはコチラ!↴
8代230余年にわたって本拠としていましたが、8代の北畠具数が織田信長に降伏し、後に具数が誅殺されるとともに、多気北畠氏城館も廃城となります。
現在北畠氏館跡には北畠神社があります。
北畠具数
北畠具数(きたばたけとものり)戦国時代から安土桃山時代にかけての大名で伊勢国司北畠家の第8代当主。
具教は北畠家の支配範囲を順調に広げていき、北畠家の最盛期を築き上げたが、織田信長が伊勢侵攻により次々と城を落とされ、大河内城の戦いでは50余日に及ぶ抵抗の末、降伏する形で和睦する。(和睦の条件の1つに信長の次男・織田信雄(後に北畠具豊)を具房の養嗣子とするという条件があった)
信長の圧力によって具房は隠居に追い込まれ、具豊は信意と改名し北畠家10代目当主となるも、具教とその側近らは心服しておらず、武田信玄と密約を結んだり、信長に敵対する紀伊熊野勢に蜂起を勧めていたとことが信長に知られることになり、信長と信雄の密命を受けた旧臣たちの襲撃に遭い家臣らと共に殺害される。
養嗣子
家督相続人となるべき養子
多気北畠氏城館 アクセス
JR名松線伊勢奥津駅から車で10分
多気北畠氏城館 スタンプ設置場所
北畠神社社務所
田丸城
田丸城。
朝来たら天守台に変な建物が建っていた、資料館で聞いたらイルミネーションと言っていたので 夜また来てみた。
日没から21時まで、1月下旬までの期間限定だそうです。
下旬て何日までなんだろう? pic.twitter.com/DIXwTdgavJ— 才谷梅太郎 (@umetarousaigou) 2019年1月19日
田丸城は、伊勢神宮を抑える戦略的要衝として争奪戦が繰り広げられていましたが、足利尊氏によって落城します。その後、北畠親房が南朝方の拠点として再建したとされるお城です。
田丸城 アクセス
JR東海 参宮線田丸駅から徒歩10分
田丸城 スタンプ設置場所
玉城町教育委員会窓口(村山龍平記念館内)
赤木城
赤木城を案内中。 pic.twitter.com/EhZydwtUdO
— るーちん (@rootin902) 2018年10月26日
赤木城は三重県熊野市にあったとされるお城で、天正の北山一揆の鎮圧拠点として築城されました。
天正の北山一揆
奥熊野の地侍たちが蜂起した一揆。討伐にあたったのは紀伊の領主であり、秀吉の弟でもある羽柴秀長である。
この一揆鎮圧で紀伊湊の領主である吉川平介が活躍したのだが、懲罰出兵の最中に秀長の命で木材2万余本を伐採して大坂で販売していたことが秀吉にバレさらし首にされる。
当然、秀吉の怒りは弟の秀長にも向けられ、容易には許されなかったという。
赤木城 アクセス
阿田和駅からバスで60分、田平子下車から徒歩で10分
赤木城 スタンプ設置場所
紀和鉱山資料館