続100名城、今日紹介するのは山形県です!
鶴ヶ岡城(大宝寺城)
*日本の歴史公園100選、14 鶴岡公園、 市立総合公園 、鶴岡市、 鶴ヶ岡城 、1875年、鶴ヶ岡城の城址公園で、敷地内には堀や石垣、樹齢数百年の老杉など。園内には、御城稲荷神社、本丸跡に荘内神社、宝物殿、英霊を祀る鶴岡護国神社。 pic.twitter.com/cxrTeGj9uk
— 福禄寿 (@nebisodake) 2018年12月8日
鶴ヶ岡城の前身となる大宝寺城が最初に築かれたのは、鎌倉時代初期とされています。
大宝寺城を築いた大泉氏の子孫が大宝寺を名乗るようになり、戦国時代には上杉氏と手を組み勢力を拡大しますが、上杉氏と最上氏の争いの中で衰退します。
その後大宝寺城は上杉氏の支城となりますが、関ヶ原の戦いの後、西軍に加担した上杉氏は厳封され、大宝寺城は最上義光の所領となり鶴ヶ岡城へ改称されます。
しかし最上家信(義俊)の時代に最上騒動が起こったため改易となり、鶴ヶ岡城には酒井忠勝が入ることになります。酒井氏は代々領民に慕われ国替えの幕命が下った時には領民の嘆願運動で撤回になったほど領民に愛された領主でした。
最上騒動
最上家の家督は本来なら最上義光の長男・義康が継ぐのが筋であるが、親子の仲が不和であったことや、次男・家親が江戸幕府と親しい関係にあったことから御家存続のために父は次男・家親を跡継ぎにしようと画策する。
そして、長男・義康は何者かによって暗殺され(義光の謀殺とも言われている)、義光の死後、最上家の家督は次男・家親が相続することになる。(後に義光は長男・義康が和解を図っていたことを知って失意のうちに病に倒れる)
ところが、次男・家親は急死してしまう。(毒殺説もある)
次男・家親の死後家督を継いだのは1人息子であった家信なのだが、若年だったことから指導力が発揮できず、家臣団から大きな不満があがり、家信を廃して義光の四男・山野辺義忠を擁立しようとする一派と、家信をあくまで擁護するという一派に分裂して激しい内紛を引き起こすことになる。
そして、義光の甥にあたる松根光広が老中に「次男・家親の死は楯岡光直(義光の弟)の犯行による毒殺である」と訴え出るも、証拠はなく松根は立花氏にお預けとなった。
一連の騒動を重く見た幕府は、一旦最上領を収公し、家信成長の後に本領に還すという決定を下したが、義光の四男・山野辺義忠一派らが「松根のような家臣を重用する家信をもり立てていくことは出来ない」と言上し、幕府の態度を硬化させてしまい、山形藩最上家57万石は改易を命じられてしまうことになる。(ただし家信には新たに1万石の所領を与えられ、最上家の存続だけは許された)
なお、義光の四男・山野辺義忠は後に徳川頼房から1万石と家老職を与えられ、徳川光圀(水戸黄門)の教育係も務めている。
ドラマ大奥でも、お福(春日局)が「長幼の序(年長者と年少者との間にある秩序)を軽んじる者が増えている」と大御所様(家康)に決死の覚悟で直訴しに行き、家康も「兄の後を追ってその座に就こうするのは謀反と言う。謀反は天下騒乱の元。」とお江与の方と秀忠を諌めるシーンがありましたね。
ちなみに鶴ヶ岡城は現在桜の名所として日本さくら名所100選に選ばれています。
鶴ヶ岡城 アクセス
鶴岡駅からバスで10分
鶴ヶ岡城 スタンプ設置場所
荘内神社社務所
米沢城
米沢城は戦国時代後期に伊達氏の本拠地となったお城で、伊達政宗が生まれたお城でもあります。
その後政宗は豊臣秀吉の命により岩出山城へ移り、米沢城は蒲生氏の改修を経て、上杉氏の重臣・直江兼続の城となるのですが、関ヶ原後は厳封された上杉氏の居城となります。
江戸時代には米沢藩の藩庁が置かれて上杉景勝や上杉鷹山などの歴代藩主が居住しました。
米沢城 アクセス
米沢駅からバスで10分
米沢城 スタンプ設置場所
米沢観光コンベンション協会観光案内所