続100名城

【続100名城】南部宗家の後継者争いに敗れた九戸氏の居城【岩手県】

続100名城、今日紹介するのは岩手県です!

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九戸城

九戸城(くのへじょう)は豊臣秀吉天下統一最期の合戦の舞台となったお城です。

九戸城は主に南部氏の一族である九戸氏の居城でした。

南部氏最盛期を築いた第24代当主・南部晴政が没したことで後継者問題で南部氏が分裂し、本家である三戸南部家当主を継いだ南部晴継が同年13歳で急死すると、九戸家と石川家の南部宗家後継者争いが本格化します。

その後、石川(南部)信直が九戸実親を退けて半ば強引に三戸南部家当主に就いたことや、豊臣秀吉の朱印状によって信直が南部氏宗家としての地位を公認されたこと、九戸氏を差し置いて惣領を継承した石川信直に、九戸政実の怒りが爆発し挙兵することになります。(九戸政実の乱)

しかし、石川信直は豊臣秀吉から領地安堵をとりつけていたことから豊臣政権への反乱とみなされ、豊臣秀次を総大将とする6万余の大軍が5000の兵が籠城する九戸城を取り囲み、助命の約束で降伏開城させるも、その約束は反故にされ政実はじめ主だった首謀者は処刑され、城内に居た者は女・子供関係なく皆殺しにされ火をかけられ、その光景は三日三晩夜空を焦がしたと言い伝えられてます。

その後、九戸城は蒲生氏郷の手によって改修されます。

そしてこの乱の鎮圧後、豊臣政権に対し組織的に反抗する者はなくなり、秀吉の天下統一が完成することとなります。

南部晴政
清和源氏(清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族)の一家系の流れを汲む、南部氏第24代当主。

南部氏の領土は、現在の青森県下北半島から、南は岩手県北上川中央部までに広がり、「三日月の丸くなるまで南部領」(空の月が三日月の頃に南部領に入ると、連日歩いても領内を通り抜けられるのに満月になるまで日数がかかるほど領地が広大だという意味)と謳われるほどになり、南部氏の最盛期を築いたのは晴政の功績によるところが大きい。

晴政には男子が無かったため、石川高信の子・信直を長女の婿にして養嗣子に迎えるも実子・晴継が誕生すると、晴政は養子である信直を疎んじるようになる。

養子・信直が毘沙門堂へ参拝した際には自ら手勢を率いて襲撃するも、信直は鉄砲で狙撃し晴政を落馬させる。一触即発の事態に陥るかと思われたが、信直の正室(晴政の長女)が早世すると、身の危険を感じ、晴政の養嗣子の座を辞退し身を隠したという。

石川信直
石川(南部)信直は部氏第26代当主。南部晴政や九戸政実らとの様々な確執があった信直が南部宗家家督を相続することになった。

よめにん
よめにん
ちなみに信直の父・高信は同じ南部氏族の大浦(津軽)為信に討ち取られている(為信は同族の領土を全て自分の物にしようと目論んでいた)んだけど、これ、晴政が唆した説があるんだよね…

九戸城 アクセス

二戸駅からバスで4分

九戸城 スタンプ設置場所

九戸城ガイドハウス、二戸市埋蔵文化財センター受付