続100名城、今日紹介するのは岡山県です!
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備中高松城
備中高松城は、戦国時代に備中国高松(現・岡山県岡山市北区高松)に存在したお城です。
羽柴秀吉による水攻めで有名なお城で、現在も水攻めの際に造成された堤防が残っています。
本丸跡には開城時に城兵の命と引き換えに切腹した城主清水宗治の首塚が祀られています。
高松城の水攻め
信長より中国攻めを任されていた秀吉だったが、高松城の周囲は沼地に囲まれ難攻不落とされており、攻城戦は持久戦となった。
そこで、黒田孝高(黒田官兵衛/黒田如水)の策により城を堰堤で囲み、低湿地にあった高松城を水没させるための工事が開始された。
世に言う「高松城水攻め」である。
この工事はわずか11日で完成し、梅雨時であったことから堰堤内には水が溢れ、城は水没した。
秀吉は高松城へ信長を招く準備をしていたが、その時にはすでに信長は明智光秀によって殺されていた。「本能寺の変」が起こったのだ。
その後秀吉は明智光秀と対決すべく「中国の大返し」を行い、強行軍で近畿に引き返した。
中国の大返し
備中高松城の戦いにあった秀吉が、本能寺の変で主君・織田信長の死を知った後、速やかに毛利氏との講和を取りまとめ、主君の仇敵である明智光秀を討つため、京に向けて全軍を取って返した約10日間にわたる軍団大移動のこと。
その行程は約200kmあり、日本史上屈指の大強行軍として知られる。
その後秀吉は摂津・山城国境付近の山崎の戦いにおいて明智光秀の軍を撃破する。
山崎の戦い
備中高松城の攻城戦から引き返してきた秀吉軍が、摂津国と山城国の境に位置する山崎(において、織田信長を討った明智光秀の軍勢と激突した戦い。
天王山の戦いとも呼ばれる。
光秀は落ち延びる途中、小栗栖の藪(明智藪)で土民の落ち武者狩りに遭い竹槍に刺されて絶命したとも、何とか逃れたものの力尽きて家臣の介錯により自刃したとも伝えられる。
この山崎の戦いが由来となった「洞ヶ峠」「天王山」「三日天下」という3つの有名な成句(二語以上から成るきまり文句やことわざ)がある。
洞ヶ峠
「二大勢力が争っているときに、有利な方へ味方しようと日和見すること」
光秀とは個人的にも極めて親しい間柄であった筒井順慶は光秀を裏切り秀吉側についた。
天王山
「ものごとの勝敗を決める正念場や運命の分かれ目のこと」
秀吉方が天王山を占拠して光秀方を牽制したことが戦いの帰趨を決めたと言われるようになり、「天王山の戦い」と呼ばれるようになった。
三日天下
「権力を極めて短い期間のみ握ること」
明智光秀が織田信長を殺して天下を取ったものの、その期間は極めて短い期間であった。
備中高松城 アクセス
備中高松駅から徒歩で15分
備中高松城 スタンプ設置場所
高松城址公園資料館