続100名城、今日紹介するのは島根県です!
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浜田城
浜田城は、石見国浜田(現:島根県浜田市殿町)に古田重治が築いたお城です。
長州藩に対する山陰側の押さえの最前線となっており、幕末に起きた第二次長州征伐(石州口の戦い)の際に州藩の大村益次郎が進軍、藩主・武聡は戦わずして逃走し落城しました。
登城口には小説家司馬遼太郎の碑文「浜田藩追懐の碑」があります。
第二次長州征伐について説明しようと思うのですが、第二次長州征伐に関わる歴史から流れに沿って紹介したいと思います。
八月十八日の政変
薩摩藩・会津藩を中心とする公武合体派が中川宮を擁して、長州藩と急進派公卿(尊皇攘夷過激派)を一挙に朝廷から追放したクーデター。
桂小五郎や高杉晋作、久坂玄端らが三条実美(さんじょうさねとみ)と手を組み、朝廷に攘夷をするよう働きかけていたのですが、これを阻止するべく動いたのが公武合体をすすめる薩摩藩や会津藩です。
尊皇攘夷
天皇を政治の中心とする尊王と、外国を追い払う攘夷とが結びついた思想。
公武合体
朝廷(公)の伝統的権威と、幕府及び諸藩(武)を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとした政策論、政治運動。
八月十八日の政変後、京都での活動拠点を全て失った長州藩は失われた地位や土地、名誉を回復するために機会を伺っていたのですが、長州藩士及び尊王攘夷派志士が新撰組に襲撃された「池田屋事件」が起こります。
この池田屋事件が切欠となり、長州藩は薩摩藩や会津藩と戦火を交える禁門の変へと繋がります。
禁門の変
京都を追放されていた長州藩勢力が、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件のこと。
長州藩勢は敗北しその勢力を大きく後退させることなる。
そして禁門の変後、長州藩は「朝敵」とされる。
禁門の変(蛤御門の変)と呼ばれる由来は、激戦地が京都御所の御門周辺であったことによるもの。
長州征伐
江戸幕府が長州藩の処分をするために長州藩領のある周防国、長門国へ向け征討の兵を出した事件のこと。
第一次征長は禁門の変(蛤御門の変)で朝敵となった長州藩に罰するために出兵するも、外国の連合艦隊の下関来襲で危機に立っていた長州藩が恭順したことで戦わずに撤兵する。
その後、高杉晋作らの強硬派(倒幕派)が奇兵隊以下諸隊の軍事力を利用し、恭順派を一掃したことで幕府との和平交渉も打ち切られる。
第二次征長(四境戦争)は 十四代将軍徳川家茂みずから征討の指揮をとるも、薩摩藩の後援を得た長州藩の士気は高く幕府軍は敗戦を重ね、将軍の死去を理由に征長が中止となり幕府の権威は失墜し、大政奉還へとつながることとなった。
※家茂は第二次長州征討の途上、病に倒れていいる。
奇兵隊
幕末期に結成された藩士と藩士以外の武士・庶民からなる混成部隊。
「奇兵」とは正規の武士を意味する「正規兵」の反対語。
大政奉還
江戸幕府(第15代将軍徳川慶喜)が政権を朝廷(明治天皇)に返上したこと。
ちなみに、各藩重臣がそろった大広間に慶喜が現れ大政奉還を表明したと思われがちだが、慶喜が大勢の前には出座していないことが判明されている。
浜田城 アクセスマップ
浜田駅からバスで5分
浜田城 スタンプ設置場所
浜田護国神社社務所