100名城観光、今日紹介するのは鹿児島県です!
九州最後の地、鹿児島です!いよいよ次回はラスト沖縄ですよ~!
Contents
鹿児島城
鹿児島城は島津氏の居城で、天守も櫓もない、館造りを踏襲した城構えとなっています。これは、領内に設置された多くの支城が外敵の侵入を防ぐことで、本城を要塞化する必要がなかったためと考えられています。
屋形の形状が鶴が羽を広げたような形であることから鶴丸城とも呼ばれています。
島津氏といえば、やはり島津斉彬が有名ですね!
島津斉彬
島津斉彬(しまづなりあきら)薩摩藩の第11代藩主。島津氏第28代当主。幕末の名君の一人。
大老井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立。次期将軍として斉昭の子の慶喜を推すために篤姫を家定の正室として嫁がせるも、井伊直弼による安政の大獄により、第14代将軍は徳川家茂となり、斉彬は敗れることになる。
斉彬は抗議のために兵を率いて上洛を計画するも、出兵のための練兵を観覧中に発病し死去する。
信長の野望で育った私としては、島津貴久と息子たち(義久・義弘・歳久・家久)のイメージが強いです。
信長の野望を初めて遊んだ時は、戦国大名なんてほとんど知りませんでしたし、日本の端っこにあって敵国に囲まれていないという理由で島津を選んだのが、島津を知ったキッカケとなりました。
そしたら、島津家軍団結束は強いし、種子島があるから鉄砲は産出できるしで、かなり強いんだもの…!!
島津義久
島津氏第16代当主。島津氏の家督を継ぎ、薩摩・大隅・日向の三州を制圧する。
島津義弘逸話【人は馬にあらず】
義久の末弟・島津家久は妾腹に生まれた子であり、その母は高貴な身分ではなかった。
ある日、兄弟四人で連れ立って鹿児島吉野で馬追を行った時のこと。歳久が義久と義弘に向かって「こうして様々な馬を見ておりますと、馬の毛色は大体が母馬に似ております、人間も同じでしょうね」と言った。
義久は歳久の言わんとすることを察し、「母に似ることもあるだろうが、一概にそうとも言い切れない。父馬に似る馬もあるし、人間も同じようなものとは言っても、人間は獣ではないのだから、心の徳というものがある。学問をして徳を磨けば、不肖の父母よりも勝れ、また徳を疎かにすれば、父母に劣る人間となるだろう」と言った。
それからというもの家久は、それからの家久は武芸に励み、文武両道の名将となった。『日本戦史 九州陣』
そんな歳久はというと…。
島津歳久
島津貴久の三男。父の貴久や兄の義久、義弘を助けて数々の合戦で活躍した。病に侵され、秀吉の前に出ることが出来なかったことが、謀反と疑われ、兄・義久に征討される。歳久の自害の際、伴の者二十七名が殉死し、また討手の者たちも皆地に倒れ臥し、声を上げて泣いたという。
島津義弘
島津貴久の次男で、島津氏の第17代当主。鬼島津の異名で知られる人物。戦だけでなく、医学・茶の湯・学問に秀でる一流文化人でもあった。
また、愛妻家としても有名で、主従分け隔てなく、兵卒と一緒になって囲炉裏で暖をとったり、家臣らに子が生まれると父母共々館に招き入れてその誕生を祝すなど、義弘の武勇と才知、人柄は多くの武将を魅了した。
島津家久
島津貴久の四男。
祖父島津忠良から「軍法戦術に妙を得たり」と評価されるほどあらゆる戦線で活躍した。沖田畷の戦いでは総大将の龍造寺隆信をはじめ、一門・重臣を含む多くの龍造寺勢を討ちとり、ルイス・フロイスから「極めて優秀な武将」だと称される。
鹿児島城 アクセス
鹿児島駅からバスで5分
鹿児島城 スタンプ設置場所
鹿児島県歴史資料センター黎明館内総合案内所