100名城観光、今日紹介するのは大坂府です!
大阪城
大阪城は豊臣と徳川が築いた天下人の大城郭です。別称は錦城(金城)(きんじょう)と言います。
豊臣大阪城は五重八階、黒漆塗の下見板と金箔瓦、金の飾り金具を付けた豪華な天守を完成させ、天下人の権威を見せつけました。しかし大阪夏の陣で大阪城は炎上し豊臣氏は滅亡します。
その後、徳川秀忠が徳川への政権交代をしらしめるために豊臣大阪城の縄張りの上に盛土をし、秀吉が築いた天守を上回る規模で新たに徳川大坂城を築きました。
徳川大坂城は落雷によって天守を焼失したのですが、昭和6年に徳川大坂城の天守台上に、豊臣大阪城天守が模して復興されています。
真田丸
大坂の陣(冬の陣)において、豊臣方の真田信繁(幸村)が大坂城平野口の南に構築した出城・曲輪(出丸)。
大阪城 アクセス
大阪城公園駅(JR大阪環状線)など
大阪城 スタンプ設置場所
大阪市天守閣1階インフォメーション
千早城
千早城は鎌倉末期の武将楠正成が金剛山一帯に築城したお城です。
千早城に鎌倉幕府軍が足止めをされている間に新田義貞が鎌倉幕府を滅亡へ導きました。
楠正成
楠正成(くすのき まさしげ)は後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献し、建武の新政の立役者として足利尊氏らとともに天皇を助けた。その後湊川の戦いにて敗戦し自害する。
明示以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年には正一位(諸王及び人臣における位階・神社における神階の最高位)を追贈された。
湊川の戦い
足利尊氏・直義兄弟らの軍と、後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦。
延元の乱
足利尊氏が後醍醐天皇の建武政権に対して反旗を翻した乱。
建武の新政
後醍醐天皇が天皇が自ら行う政治「親政」を開始したことにより成立した、政権及びその新政策のこと。
後醍醐天皇は天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士層を中心とする不満を招き、足利尊氏が離反したことで政権は崩壊する。
乱と変の違い
ところで大塩平八郎の「乱」とか、本能寺の「変」とかの違いをご存知ですか?
数年前に「変」は成功したクーデター、「乱」は失敗したクーデターというツイートが話題になりましたが、「成功か失敗か」という結果に基づく分類は間違っているようなのです。
政治権力に対する武力による反抗(反逆事件)を「変」、天皇家や朝廷、幕府など、時の権力者に対して起こった反乱・内戦「乱」となったようです。
…ともんもんとしていたら、権力者への反抗の場合は「乱」「変」の両方が使われ、成功し体制の変革が起こる可能性がある場合には「乱」、体制の変革につながらない場合は「変」となったようなのです。
千早城 アクセス
近畿日本鉄道近鉄長野線 富田林駅
千早城 スタンプ設置場所
千早赤阪村 金剛山麓「まつまさ」、千早城跡茶屋(不定期)