100名城観光、今日紹介するのは佐賀県です!
佐賀といえばSAGA!ロマンシング佐賀!
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— ロマンシング佐賀3公式 (@SAGA3official) 2016年12月20日
名護屋城
天下統一を果たした豊臣秀吉が大陸出兵を目指すようになり、その足がかりとして築かれたのが名護屋城です。
戦のための城として築かれた名護屋城ですが、金箔瓦を使用した五重天守や御殿も建てられており、一時は京をもしのぐ賑わいだったとされています。
築城に際し、黒田孝高や加藤清正らが普請奉行となり、九州の諸大名を中心に動員し、当時の城郭では大坂城に次ぐ広壮なものであった名護屋城を8か月で完成させました。
名護屋城の近くには呼子があります!
呼子といえばイカ!透明なイカです!
呼子のイカ
玄界灘に面する呼子は、イカの活き造りを食べられる場所として知られる。
名護屋城 アクセス
名護屋城博物館入口バス停下車、徒歩約5分
名護屋城 スタンプ設置場所
唐津市佐賀県立名護屋城博物館
吉野ヶ里
吉野ヶ里遺跡は弥生時代前期から後期にかけての大規模な環濠集落(周囲に堀をめぐらせた集落(ムラ)で、城のルーツともいわれています)で、ムラからクニへ発展していった状況が感じられる遺跡です。
邪馬台国
2世紀~3世紀に日本列島に存在したとされるクニのひとつ。邪馬台国は倭女王卑弥呼の宮室があった女王国であり、倭国連合の都があったと解されている。邪馬台国の所在地については21世紀に入っても議論が続いている。
邪馬台国と吉野ヶ里遺跡
魏志倭人伝に記された邪馬台国の様子を彷彿とさせる遺跡が見つかってはいるが、吉野ヶ里が邪馬台国だったという証拠は見つかっていない。
魏志倭人伝
中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称。日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている。
卑弥呼
魏志倭人伝等の中国の史書に記されている、邪馬台国を統治したと伝えられる倭国の王(女王)。巫女(シャーマン)であった可能性が高い。
吉野ヶ里 アクセス
JR長崎本線吉野ヶ里公園駅より東口まで約700m
吉野ヶ里 スタンプ設置場所
吉野ヶ里歴史公園東口
佐賀城
佐賀城は戦国大名龍造寺氏の居城であった村中城を鍋島直茂・勝茂親子が拡張して築造したお城です。
龍造寺隆信
龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)肥前の熊の異名をもつ戦国時代の武将で、豊後(大分)を拠点とする大友氏を破り、島津氏と並ぶ勢力を築き上げ、九州三強の一人として称されるも、島津・有馬氏の連合軍との戦いで敗死した。
鍋島直茂
鍋島 直茂(なべしま なおしげ)は龍造寺隆信の家老。
秀吉から九州征伐の動きを高く評価され、龍造寺隆信の嫡男・政家に代わって国政を担うよう命じられ、実権を直茂が掌握することになる。
また、関ヶ原においては息子の勝茂が西軍で参戦していたものの、東軍勝利を予測していな直茂はいち早く家康に米を献上し、勝茂の軍勢を戦線離脱させ家康への恭順の意を示すため西軍諸将の居城を攻略したことで、鍋島家は事なきを得た。
その後政家が隠居し、子・高房が幕府に対して龍造寺家の実権の回復を働きかけるも、幕府も家臣らも鍋島氏への禅譲(地位を血縁者でない有徳の人物に譲ること)を積極的に支持したことで、高房は直茂を恨み妻(直茂の養女)を殺し、自殺を図った。
直茂は耳に腫瘍ができ、激痛に苦しんだ上での悶死であったことから、高房がかつて飼っていた猫が化け猫となり、直茂・勝茂に復讐を企てたのではないかという「鍋島家化け猫騒動」が広まることになる。
佐賀城 アクセス
佐賀駅からバスで10分
佐賀城 スタンプ設置場所
佐賀城本丸歴史館受付