100名城観光、今日紹介するのは福井県です!
丸岡城
丸岡城は福井県丸岡町にあったお城で別名霞ヶ城と言います。霞ヶ城の由来は合戦時に大蛇が現れて霞を吹き、城を隠したという伝説によるものです。
柴田勝家の甥・勝豊が築いたとされるお城で天守は現存する最古のものであると言われています。
天守に石瓦が使われているのは瓦が凍結して破損するのを防ぐためであり、天守に石瓦を使用した現存例は丸岡城のみです。
お静伝説
丸岡城の築城時、天守台の石垣が何度も崩れて工事が進行しなかったため、人柱を立てることとなった。城下に住むお静は、息子を士分に取り立てる事を条件に人柱となる事を申し出たのだが、息子を士分にする約束は果たされなかった。
お静の怨みは、やがて亡霊となり城の井戸深く棲みつくようになった。今もその井戸は、本丸跡に蛇の井と呼ばれて残っている。
お静が人柱にされた4月になると大雨が続くことから人々はそれをお静の涙雨と呼んだ。城内にはお静の慰霊碑が残っている。
丸岡城 アクセス
北陸自動車道 丸岡ICから約2km
丸岡城 スタンプ設置場所
坂井市霞ヶ城公園管理事務所
一乗谷城
一乗谷城(一乗谷朝倉氏遺跡)は南北朝時代に朝倉氏によって築城されたお城です。
朝倉氏
開化天皇の後裔とも孝徳天皇の後裔とも伝わる日下部氏の流れをくむ氏族のひとつ。通字(とおりじ/日本の特定の家系において、代々にわたって名前に用いられる字のこと)は「景(かげ)」。
応仁の乱により荒廃した京から逃れてきた文化人たちなどにより、一乗谷は飛躍的に発展したのですが、織田信長の軍勢により放たれた火(放火は三日三晩続きました)によって灰燼に帰し、田畑の下に埋もれました。(一乗谷の戦い)
昭和42年に発掘が開始されると、戦国時代の町並みがほぼ完全な姿で発掘され、現在は武家屋敷や街並みが復元されています。このことから日本のポンペイとも呼ばれています。
一乗谷の戦い
織田信長と朝倉義景の間で行なわれた合戦。
朝倉氏の盟友である浅井の本拠・小谷城が織田信長の大軍に包囲されたため、浅井救援に向かった朝倉義景だったが、信長の機転によって朝倉軍が浅井軍よりも先に追い込まれることになり、最終的に義景が自害に追い込まれ、戦国大名としての朝倉氏は滅ぶことになる。
朝倉義景
朝倉義景(あさくらよしかげ)は越前朝倉氏第11代(最後)の当主。室町幕府の第13代将軍・足利義輝より「義」の字を与えられ、義景と改名する。
義景前半の治世では周辺諸国に比べて安定・平和・栄華を極めた。しかし、側室の小宰相との間の子阿君丸を設けるも、小宰相は病死し阿君丸も早世したことで悲しみの余り政務を省みないようになる。
その後、小少将を側室に迎えることになるが、政務は小少将とその女房らの言うがままになりさらに政務に省みなくなった。
一乗谷の戦いでは従兄弟の朝倉景鏡の勧めで賢松寺に逃れていた義景であったが、景鏡が織田信長と通じており、義景は自刃をすることになる。
死後、血族の多くが信長の命を受けた丹羽長秀によって殺害され、義景の首は京都で獄門に曝され、その後浅井久政・長政共々髑髏に箔濃(はくだみ/頭蓋骨に金箔と漆を塗ったもの)を施され、信長が家臣に披露したという。(酒杯にしたというのは作り話)
このことは、冷酷残忍な人物だったと評する者と、敵将への敬意の念があったことを表したものと評する者がある。
愚将か?名君か?朝倉義景の汚名を晴らしたい
朝倉義景は「無能」な君主だったのですか?
朝倉義景は愚将のイメージがありますがどう思いますか。
朝倉義景の領国政治について。
一乗谷城 アクセス
JR越美北線一乗谷駅から徒歩5分で下城戸、徒歩約30分で朝倉館跡
一乗谷城 スタンプ設置場所
福井市復原町並入口(南・北)